ある日突然、『白血病』と宣告された母。娘の想いは。


by a-ve-maria
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

22・・・命日。

今日は母の命日。

重箱に母の好きなおかずを沢山詰めて。
桜の下で会おうね。

行って来ます。
[PR]
# by a-ve-maria | 2011-04-07 11:20
母の持ち物を家族で分け、
私の家にも写真や衣類、器などを持ち帰った。
母が玄関に飾っていた小さなお地蔵さんに御香を焚こうと思っていたところ、
タイミング良く友人から御香のプレゼントが。
しかも、私がとても好きな香り。
彼女は母に合わせたかった友人のひとり。
多分、私の気持ちは母に届いているはず。

母の持ち物を引き取って整理し、母が育てていた観葉植物に水をやり、
母が使っていた花器に花を生け、
生活の中に母を感じられるようになってから、
不思議と心が落ち着き、やっと自分のバランスを取り戻せた気がする。

ここまで来るのは本当に長かったけれど、
周りの皆のお陰で、少しずつ前へ。

告別式の前日に、三年ぶりに電話を掛けた幼馴染。
子供の入園式前日にも関わらず、
私が少しでも眠れるようにと、朝方までそばにいてくれた。

思春期から一緒に過ごしている家族の様な友達。
母の闘病中、辛い時にはいつでも励ましてくれた。
私が食べ物を受け付けなくなった時、
その時唯一食べられるのが『小さくて丸い物』だと話すと、
幼児用の一番小さいボーロを持って駆け付けてくれた。
通夜から告別式まで、控え目に、でもいつも顔が見える位置にいてくれた。

母と同じ名前の友達。
母亡き後、慌てて自立しようとする私に、
そのままでいい。と言ってくれた。

三回忌が終わってもまだ涙が出て情けない、と言うと、
十年毎日泣いたっていい。と言ってくれる友人。

そして、私の喜怒哀楽の全てを受け入れてくれる主人。

夫であり、親友であり、これからは母にもなる!と言って、笑わせてくれる。

今回学んだ大切な事。

悲しい事が起こる事よりも、
悲しい気持ちを話せる相手がいない事の方がもっと辛いと言う事。

生きていると、様々なトラブルが起こって当然。
その時に、気持ちを分かち合えるパートナーや友人がいる事が、
どれほど心強いかを、母亡き後に知った。

私が結婚した時に、
「これでお母さんが死んだ時に、泣いている○○○の隣で支えてくれる人が出来て安心した。」と言った。
その思いの深さが今なら分かる。

ありがとう。お母さん。
[PR]
# by a-ve-maria | 2010-08-03 22:18

20・・・母の日

母の日でした。
墓前にカーネーション。
母は白い花が好きだったので、
白いカーネーションを。

母の日商戦真っ只中のフラワーショップ、
沢山の綺麗な花を見ていたら、
もう花も贈れないのかと思うと涙が出てきた。

最近、“母”と言う言葉を目や耳にしただけでも
涙が出てくる。

そろそろ本当に自分の人生を歩んで行かないと。
[PR]
# by a-ve-maria | 2010-05-09 19:06

19・・・母に会いに。

あれから2年。
三回忌は少し前に済ませ、今日は父と二人きりでお墓参りに。
今日の日を覚えていてくれた友達から電話を貰い、嬉しかった。

お墓参りに不謹慎かな?と思いつつ、
母が喜びそうな華やかな桜色のコートを羽織って会いに行った。

道中、母が好きだった綺麗な桜のトンネルを何度もくぐった。
桜の花を見ると、母の笑顔を思い出す。

森山良子さんが歌う 涙そうそう を聞くと、
一言一言が私の心境を歌っている様で、涙が出る。

本当に、喜びにも悲しみにも母の笑顔が浮かぶし、
もし母から私が見えているのなら、
いつか必ず会えるはずと信じて生きていけるから。

母がこの世を去ってから、
今まで母に相談していた事を自力で解決したり、
主人や友達に話したり。

足りない事より足りている事を感じ、
今ある幸せを味わえるようになった。

母が、まだまだ半人前の私を置いて行ったのは、
私には母から注がれた愛情の貯金がたっぷりとあり、
母が発病する数年前からの試練によって逞しくなった心、
安心して任せられる主人の存在があるからだと思う。

本当は、こんな風に前向きに考えられる様になった私を
一番母に見せたかったのだけれど。

母が居るだけでその場に明るくて柔らかい空気が生まれ、
心地良く、癒された。

苦労を知らないからこそ出来る屈託の無い笑顔ではなく、
苦労を知った上で、全てを許し受け入れた人の
優しく包み込むような笑顔。

娘時代は間違いなく前者だった私。
結婚し、母を亡くした今、
遅いと笑われるかも知れないけれど、
本当の意味での親離れを経験している。
これからは自分の人生を自分で歩き、
母のような笑顔で過ごせる人になりたい。
[PR]
# by a-ve-maria | 2010-04-07 11:20

18・・・最後に。

娘の私の心の整理と記録の為に始めたブログですが、
最初は当時の気持ちが蘇ると辛くなり、手が止まり、なかなか進まず。
それでもいつかは仕上げたいと、マイペースで綴って来ました。

母が旅立ってから1年半が経ち、自分なりに気持ちの整理をし、周りの支えもあり、
やっと少し落ち着き、この記録も仕上げられそうです。

母の闘病中に色々な方の体験記・闘病記のブログにお邪魔し、
励まされる時もあれば、見たくなかった現実を見てしまい落ち込んだり。

当初は30分も持たないかも。と、言われた母の残された時間が3週間に伸び、
無理だといわれた血液学的寛解の状態にまでなれ、
目標だった臍帯血移植が出来る状態に。

でも、私自身は今でも母が臍帯血移植をしたのが正しかったのかどうか分かりません。

主治医との取り決めで、母が希望を持てるように
治癒率が極めて低い事は本人には話さなかったので、
本人は臍帯血移植さえすれば、すっかり元気になって
又、元の暮らしに戻れると思ってやる気満々でした。
発見が早く、若くて元気な方であればそれも有得ると思います。
でも、母の場合は、58歳と言う年齢と
急性転化してからかなり時間が経っている点から、
術後の合併症と闘って、無菌室から出られるかどうかは難しいと聞かされていました。

何よりも移植を躊躇させた要因として、
寛解の状態は非常に体調が良く、元気に喋り、
自分で歩いてトイレにも行けていたと言う事がありました。
会話も出来て、食べたい物も食べられて、触れる事も出来る。
この状態を、もう一度壊してしまうのがとても嫌でした。

それでも母は移植の道を選びました。

案の定、術後の苦しみぶりは相当な物でした。
本当に辛そうで、私は移植に踏み切った事を後悔しました。
初めのうちは、何もやらないよりやった方が良いと母は気丈に言っていました。

術後合併症と戦い、手を尽くし、
最後は痛みを和らげる事を取るか、家族との会話のコミニュケーションを取るか、
苦渋の選択で痛みを和らげるためにモルヒネを投与する事に。
会話が出来なくなる事を伝えると、
“私、頑張ったのに何で?”“死にたくない”と、首を横に振りました。

それが、母の発した最後の言葉となりましたが、
その後、こん睡状態の母の手を握って語りかけ続けていると、
多分、母も精一杯やって、悔いは無く納得しているのではないかと思えました。

薬の副作用でパンパンに浮腫んだ手。
やっと素手で触れられた母の手。
c0162535_19552596.jpg

薬で眠らされている状態になってからも、
付き添っていると夜中に何度か目を覚まし、
ぼやけている筈の目をキョロキョロとさせ、家族を探していました。
顔を近づけて話しかけると、ゆっくりとした瞬きで答えていました。

旅立つ数日前にも夜中に目を覚ましたので、
付き添っていた兄が手を握ると、
驚いた事にベッドから起き上がろうと上体を起こしました。
そして、兄を抱きしめようとしていました。
慌てて寝かしつけましたが、この時は何度“疲れるから寝よう”と言っても目を閉じず、
暫くは、しっかりと目を見開いたままでした。
後で兄とこの時の事を話したら、
あれは最後の力を振り絞って何か伝えようとしてたな。と、言っていました。

母の闘病は悲しい結果になりましたが、
お別れの日まで、しっかりと心の準備が出来たし、
あのまま何も無ければ伝えていなかった感謝の気持ちも伝えられたし、
素直に娘として甘えられた気がします。

何より最後まで戦い抜いた姿を誇りに思います。
母の闘病から学んだ事は沢山あります。

人生は、未来にどんな事が起こるか分からないので、
例えどんな状況に置かれても、
立ち向かって行ける強い心を持つ事が大切だと教わりました。
夢描いていた物が崩れ、大切な物を全て奪われた様な気持ちになっても、
自分の心と体を大切にしていれば、又、前へ進めると思いました。

母に生きる希望を与えて下さった臍帯血と輸血用血液の提供者の方達には、
特にに感謝しています。

母も、最初は輸血を拒み、同意書へのサインに戸惑っていました。
その時、兄がもう20年以上定期的に献血している事を思い出し、
“お兄ちゃんが見ず知らずの人へ届けた気持ちが、
回りまわってお母さんに届いたと思えばいい。”と、諭しました。
その後、同意書にサインし、輸血が始まりました。

今でも献血車に並ぶ人を見ると、本当に感謝の気持ちで一杯になります。
提供した血液が、誰にどの様に届くのかも分らず、
感謝の言葉も聞ける訳では無く、誰に褒められる訳でも無いのに、
見返りを期待せずに赤の他人の為に時間を使い、体力も使い、
大切な自分の一部を提供してくれる。

そんな方達のお陰で、母と過ごす時間が長くなり、移植まで漕ぎ着けました。

人助けをしたいと献血される方、
たまたま献血車を見つけて献血される方。
無料の血液検査として献血される方。

どの様な経緯で献血されたとしても
それによって救われる人が必ずいます。

他人の為だと考えず、
もしかしたらご自身やご家族の為かも知れないと考えれば、
私の様に一歩踏み出せるかも知れません。

この先医学が進み、
様々な病気による痛み苦しみが取り除ける日が来る事を望んでいます。
[PR]
# by a-ve-maria | 2009-11-24 00:10

17・・・お母さんへ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お母さんへ。

お母さんが居なくなって、本当に寂しくて虚しいけどれど、
この事がきっかけで、人に頼る事が出来るようになりました。
聞きたかった事、教えて欲しかった事がまだまだ沢山あるけれど、
もう答えは返って来ないので、自分なりに考えて生きていきます。

この間、お母さんの好きだったカサブランカを仏壇に供えようと買って歩いていたら
見ず知らずのお婆さんに呼び止められ、
お婆さんの持っている小さな山野草と交換に、私の花を一輪欲しいと言われました。
対の花瓶に飾る為に偶数で買ったし、高価だったし、断って通り過ぎたけれど、
お母さんなら絶対に渡してるだろうな・・・と、思って引き返し、
花一輪と山野草を交換しました。なんだか清清しい気分でした。

ドナーバンクにも親兄弟にもHLAの合致者がいなくて、
私のHLAとお母さんのHLAも6分の3しか一致せず、
私の骨髄でお母さんを助けられない事がショックで自分を役立たずだとも思ったけど、
お母さんが息を引き取った時、取り乱す私に担当の先生が、
“HLAが合致しなかった時にショックを受けていたけど、
○○○さんは、お父さんとお母さんの良い所を半分づつ持ってる”と言ってくれました。

この言葉だけでなく、そう思ってくれている気持ちがとても嬉しかった。
今でもこの言葉を思い出して自分を励ましています。
お父さんの強くて誠実な所とお母さんの優しくて明るい所。
そして二人に注いでもらった深い愛情。
私がどんな状態の時も一緒に歩んでくれる伴侶と、心が繋がっている友達。

私にはこれだけ備わっているから、これからちゃんと生きていけると思います。

お母さん。
生んでくれて、育ててくれて、本当に有難う。
華やかで料理も上手で多才なお母さんの事、いつも自慢でした。
喧嘩もしたけど、やっぱり私の一番の理解者でした。

生まれ変わってもお父さんと絶対に結婚したいって言ってたね。
お母さんの不思議な力があれば、出来ると思います。

これからも変わらず、家族みんなを見守っていてね。
この先私が出産をする日が来たら、必ず立ち会いに来てね。

私はお婆ちゃんになってもきっと怖がりだから、
私が天寿を全うしたその時は、必ずお母さんが一番に迎えに来てね。
再び会えると信じて、
その日までこちらで頑張ります。

お母さん譲りの、こぼれる様な笑顔を忘れないように。


~追伸~

一昨年は、こうしてお父さんに満開の桜の写真を送っていたね。

去年と今年は、桜を見る気になれませんでした。
来年は、あの公園にお弁当を持って出掛けます。

・・・そちらの桜も綺麗ですか?
c0162535_6443965.jpg


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[PR]
# by a-ve-maria | 2009-01-20 23:39

16・・・桜が咲いた。

見た目も華やかで性格も社交的な母は、
私が小学生の高学年になる頃には
専業主婦を止め、仕事を持ち、毎日飛び回っていた。
私はいつも淋しく、母と過ごす時間がもっと欲しいと思っていた。
皮肉な事に母が入院してようやくそれが叶った。
そして、母がどんな人なのかを改めて知る事が出来た。

跡継ぎ同士の結婚だった母の両親は、
母が1歳半の時に離婚し、
病弱で入退院を繰り返す母親の代わりに
大人になるまで祖父母に育てられていた。
優しい祖父母に心配をかけたくなくて、いつも本音は言えず、
悲しい事があっても常に笑顔でいたそう。
裕福だったけれど常に愛情に飢えていたらしい。

大人になり、初めて心を許せる父と出会って私達が生まれ、
ずっと憧れていた家庭を持てた。
生きて来て一番嬉しかった時は、兄が生まれ、私が生まれ、
家族で食卓を囲んだ時だったそう。
手編みのセーターや手作りのお菓子、
いつも家族に深い愛情を注いでくれた。

私達兄妹もそれぞれ独立し、さらに新しい家族も増えた。
これから父との楽しい老後の為に、色々と計画も立てていた矢先の発病。

悔しくてならなかった。
よりによって、何故母がこの病気に。
人を疑う事を嫌い、最後まで信じる事の出来る人。

でも、今思えば、
母の願いだった家族の団欒と、子供のように甘えたい願望が、
病室で叶えられていたのかも知れない。

とても仲の良い両親に育てられ、何不自由なく育った私は本当に我侭で、
母の、全てを受け入れられる人間性が自己犠牲的に思えて腹立たしい時があり、
一方的に怒ったりした。
キツイ言葉を投げ掛けても言い返さず耐える母を見て余計にイライラした。

その時は一人前に母に意見をしているつもりだったけれど、
それが甘えだったと母が入院してから気付いた。
同時に、甘えて寄り掛かれる相手が周囲にいない娘時代を過ごした母は
さぞかし孤独だっただろうなと思い、胸が痛かった。
だから、入院した日から思いっきり我侭を言えている母を見て嬉しかった。
でも、その我侭な態度を直に受けるのは看護士さんだったので、
冷や冷やする事もあった。
ハキハキした口調できつく見えるけれど、心の温かさがある看護士さん。
物腰は柔らかいけれど、患者をまるで物の様に扱う瞬間がある看護士さん。
色々な看護士さんが居たけれど、母なりにコミュニケーションは取れていたと思う。

治療は厳しかったけれど、いつも笑顔はあった。

父には弱音も吐いていたそうだが
娘の私にはいつも気丈に振舞っていた。

昨年末に外泊許可がおりて自宅でお正月を迎えられた母。
作ってもらいたい献立を、まるで遠足の栞の様に書いて私に手渡した。

無菌室に入る直前に、不安がる母を思い切って抱きしめた。
物凄く恥ずかしかったけれど、どうにかして安心感を与えたかった。
その日、入院して初めて母が泣いたのを見た。


昏睡状態になってからは、手を握って話しかけていた。

“父と母の娘として生まれてきて本当に良かった”と伝えた。
母と3人で最後に遠出した時に、私と大喧嘩をしてしまって後悔していた主人は、
“もう喧嘩しませんから、元気になったら又ソフトクリーム食べに行きましょう。”
と、伝えた。
母が涙を流していたのは、ちゃんと聞こえていたからだと思う。

臍帯血移植後の合併症で苦しんで、肺に溜まった水が広がり、
自分で呼吸も出来なくなって意識も無い時に、
『よく頑張ったから、もうお父さんも褒めてくれるわ。一緒に家に帰ろうか?』と聞いたら、
はっきり頷いて、かすかに手を握り返した。
それを見て、もう本当に家に連れて帰る時が来たと思った。

自分の頑張りを、誰よりも父に褒めて欲しかった母。

その為に、人生の最期で辛い治療と戦った。

その後、母が気にしていた孫との約束のお花見に
私が代理で行って来て、母の好きな桜が咲いた事を報告した。

そしてその翌日の朝、お釈迦様の誕生日の前日、
元気な時に望んでいた通りに、
家族全員が揃うのを待って
父の腕の中で息を引き取った。

c0162535_6382055.jpg




今でも、母が入院してから今日までの事が信じられない時があり、
思い出して、会いたくて、悲しくて、メソメソしている。
母がまだ病院にいるような気がしたり、
夢に元気な姿で出てきた日は、現実との区別がつかない時があったり。
百箇日が終わるまではきちんと母を送る務めを果たしたくて、
人前で取り乱さないと決めていた。
今頃になって緊張の糸が切れたのか、ふとした事で涙が出てくる。

母から譲り受けた物はこの命と、
人からよく褒めてもらえる笑顔。
病室で震える手で書いてくれた手紙。
その中に書いてあり、初めて知った事。
兄の出産のダメージで、二人目は作らないようにと言われながら、
どうしても女の子が欲しくて妊娠5ヵ月まで隠してまで生んでくれた。
手紙の最後に、“優しくしてくれて有難う”と記されていたのを見て、
娘にまで遠慮がちな母がいじらしくて泣けてきた。

娘が親に優しくするのは当然なのに、お礼を言うなんて。
本心が上手く伝えられずに生意気な事ばかり言っていた私に
優しさを感じていてくれたのが嬉しかった。
c0162535_20223265.jpg

育ててくれた恩返しのつもりで看病に臨んだけれどまだまだ足りない。
もし生まれ変わりがあるとしたら、
今度は私が母のお母さんになりたい。
愛情たっぷりで、我侭言いたい放題に育ててあげたい。
母にして貰って嬉しかった事は全てしてあげたい。
もう一度、この顔ぶれで家族になりたい。
[PR]
# by a-ve-maria | 2008-04-07 11:20

15・・・喜びのメール

母が汚したパジャマを、夜、病院に取りに行き洗濯し、
朝には綺麗になったパジャマを届けると言う流れを父は続けていた。
一日二回着替える時もあり、数が足りなくなって来た。
父の負担を軽減する為、
洗い替えの新しいパジャマを探していた時、母からメールが。

AM 10:08
“パジャマ買わなくても良いよ あんまり汚さなくなってきたから”

快方に向かっているのを確信した、とても嬉しそうなメールだった。
[PR]
# by a-ve-maria | 2008-03-09 06:54

14・・・臍帯血移植の日

偶然にも、父の誕生日と同じ日に移植する事になった。
それだけで母は『縁起が良いから成功する』と、喜んでいた。
体は移植直前の放射線治療で、だいぶ疲れていたけれど。

東京から届いた女の子の赤ちゃんの臍帯血。
大切に母が受け取りました。有難う。

移植をしてからの母は、赤ちゃんに戻るような感じだった。
髪は抜け、肌も赤黒くなり、全身がもの凄く浮腫み、
シルエットが丸く柔らかくなる。
自分で排泄の調節が出来なくなるので、
オムツが必要になる。
会話ももままならなくなり、周りの人の支えで生きている。

ここから、回復して元気な姿で退院出来る様に祈っていた。
[PR]
# by a-ve-maria | 2008-03-01 06:54